About ogatako オガタコとは

オガタコって、聞いたことがない言葉ですよね。
そうです、辞書には載っていません。

自分の本名は、尾潟鉱一(おがたこういち)と言います。
あだ名は、おがちゃんとか、おがたんとか言われていました。
誰も、オガタコと呼ぶ人はいませんでしたが、自分の中では小学生の時から
逆さま読みの「ちいうこ たがお」や「おが たこいち 」を面白がって使っていました。
でも、決して口に出して言うことはありませんでした。

自分は小学校5年まで大阪で育ったのですが、大阪ではこのタコ!と言うのは、あまりいい言葉ではありません。自分に対してタコという人はいませんでしたが、自分だけが心の中で呼ぶ愛称に「タコいち」、苗字から言うと 「おがタコいち」を使っていたのです。これが略されて「オガタコ」という愛称になりました。まだまだ、自分だけが心の中で思っている言葉にならないアイデンティティーでした。

オガタコは、恐れ多くも尾形光琳や緒方洪庵とも共通点のある呼び名です。なので、小さい時からなんとなく親しみ深く感じていました。

言葉にしないアイデンティティーのある言葉でしたが、60歳になって、描いた絵にogatakoのサインをするようになりました。そして、周りの皆さんにもオガタコと呼んでと言うようにしました。
60歳を過ぎたおっさんにオガタコと呼ぶのは、皆さん戸惑われるのですが、そうお願いしています。

今は、オガタコさんと呼ばれることが多いですが、自分はオガタコと呼び捨てで呼んでほしいのです。
ゴッホやピカソやマチスの絵のことをさん付けする人は少ないと思います。(多分今生きて目の前にいたら、さん付けしてしまうでしょうが)
自分も、ogatakoが固有名詞になってさん付けしなくても、皆さんが呼びやすくなるように頑張りたいと思います。

ogatakoの略歴

  • 1960年 大阪府吹田市千里丘生まれ
  • 1963年 大阪府茨木市春日丘に転居
  • 1970年 大阪万博会場がすぐ近くだったので、太陽の塔の後ろ姿ができてゆくのを見ていた。
  • 万博見物のために、実家にたくさんの来客があり、案内係として何度も同行。
  • もう時効だが、万博会場へのフェンスの破れを熟知しており、頻繁に非公式入場する
  • 1972年 父親の転勤で大阪から東京都武蔵野市に転居 思春期につき関西弁を放棄し東京弁に。
  • 1980年 高校卒業後北海道の酪農学園大学に入学。最初の日に酪農開拓農民の青年に出会う。
  • 1984年 将来農業を通した学校のようなものを作りたいと過大な夢を抱き、大学の先輩が始めた障がい者福祉事業のボランティアをしながら下川町の畑作農家に従業員として勤務。
  • 1984年 従業員から畑作農家の土地を借りて独立して栽培販売を始める。
  • 1992年 フルーツトマトの栽培を始める。
  • 1997年 農業をやめ、障がい者福祉施設職員となる。
  • 2020年 60歳となり、定年まで5年残し退職。イラストレータ、デザイナーを目指す。
  • 2021年 職業訓練にてWebデザインやコーディング講座を受講し、6月より独立開業。

長女は フォトグラファー、次女は漫画家、長男は現代アート作家